がんばる女子大学生のブログ

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摂食障害体験記 2 〜高校入学後の心身の変化〜

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こんにちは、るん(仮)です。
今回は、「摂食障害体験記 1」の続きとして、私が摂食障害と診断される前までの経緯についてお話します。

摂食障害と診断されるまでの高校生時代

私は公立高校に合格することができず、私立高校に入学しました。
友達ができるか、という人並みの不安を抱えていました。私は人見知りですので、知らない人に自分から話しかけることができません。誰かが話しかけてくれるといいな、というスタンスで高校デビューしました。

新しいクラスには、幸運なことに、同じ中学校で仲の良かった女の子と、同じ塾に通っていた違う中学校の女の子がいました(その子をA子とします)。話したことはなかったのですが、お互い同じ塾の子だ、と意識していました。私はA子と、彼女と仲良くなったB子と一緒に行動するようになりました。いわゆる、グループです。私のクラスでは、入学後1週間もたたないうちに女子のグループ化が完成していました。男子とは必要があれば話す、という程度でした。

私は中学生の頃から、このような女子グループにはいささか疑問を持ち、トイレに行くときも友達を誘う行動があまり理解できない人です。自分から誘ったことはありません。ですが、どうやらこの高校のクラスでは、グループで行動しないとやっていけないと思い、高校生活を送っていました。

少し摂食障害から話の内容が離れてしまいました。しかし、今振り返ると、この人間関係のストレスも原因の一つだと思っているので書きました。

昼食についてですが、私の高校は学食はなく、自動販売機で売られている菓子パンやおにぎり、持参するお弁当をめいめい好きな人同士かたまって食べるといった形でした。

私は「摂食障害体験記 1」で書いたように、中学3年生の頃から自分が食べる量は自分でコントロールしていました。ですので、高校には母親が作ったおかずを自分でお弁当に詰めて持参し、A子とB子と食べていました。2人には、少なくない?と言われたこともありましたが、そんなことないよ、このくらいが丁度いいんだ、と流していました。

家の食事でも自分でよそい、基本的に肉と炭水化物は食べませんでした。その頃は、普通の人の半分の食事量で生活していたように思います。ですから当然、ますます痩せていきました。

その頃、高校の体育の授業、移動教室での階段など、日々の生活で疲れやすい、しんどいと感じることが多くありました。

高校入学してすぐに行う体育の体力テストでは、自分の運動能力の低下具合に非常に驚きました。まず、50メートル走での全力疾走がまともにできませんでした。中学生のときは8秒か9秒で走れていましたが、12秒くらいに遅くなっていました。スタートの合図の後にすぐに体を動かすことができない、そして足の筋肉が少なくなっており足を早く回せない、といった感じです。1000メートルも、4分10秒ほどで走れていましたが、5分くらいかかるようになっていました。また、バレーボールの授業では、腕の筋肉と脂肪が減少し皮膚のすぐ下に骨があるような状態になっていたので、アンダーハンドパスなども数回で腕が痛くなり、できるだけ参加したくないと思いました。バスケットボールの授業では、シュート練習で、ゴールより1、2メートルの距離でも、腕の筋力がないためボールを投げても届きませんでした。

また、心にも変化がありました。

鬱の症状というほどではありませんが、何事にもあまり関心が持てず、気力もなくなっていました。クラスでもっと友達を作ろうという気もわかず、夏の学校祭へのクラスと取り組みにもあまり積極的な気持ちを持てず、とりあえず自分のことはやる、といった程度でした。A子とB子との関係は問題なく続き、新たにC子とD子がいつのまにか一緒に行動するようになっていました。

ここで、生理の話をさせてもらいます。私の生理は、中学3年生の秋に止まっていました。私は、生理が来ないのは楽でいいな、と思っていました。今思えば恐ろしいことです。それほどまでに脳と心がやられていたのかもしれません。

母親は、生理の来ない私の状態を心配していたようです。いつの頃からか、肉を食べなさい、肉さえ食べれば生理は戻る、と頻繁に言うようになりました。私は決して食べようとしませんでした。これほど頑固であったのも、食事で栄養をまともに摂取していなかった影響でしょう。高校入学の前か後か覚えていませんが、母親に産婦人科に行こうと言われました。はじめは嫌だと断りましたが、そのうちなんとなく行こうかなと思ったときに行きました。

母親は女性の医師の産婦人科を探してくれていました。先生は、子宮が眠っているのかもしれないね、と女性ホルモンを活発にする薬を処方してくださいました。また、母親から私が10キロ程度激やせしたことや、当時の食生活を聞き、非常に驚いていました。食事量、特にタンパク質が足りてない、とおっしゃいました。母親はどうしても私が肉を食べようとしない、と言い、私はすぐにお腹いっぱいになる、と言いました。すると先生は、ササミでもいいからお肉を食べましょう、トロッとしたスープなどを追加しながら少しずつ胃を大きくしていきましょう、とアドバイスをくださり、優しい先生という印象でした。採血をしたところ、女性ホルモンか何かの数値がとても低いことがわかりました。

その頃は本当に頭が回転していなく、記憶が曖昧です。申し訳ありません。産婦人科に行った後の食生活は、あまり思い出せません。母親がササミの食事をたくさん作ってくれていました。私がそれを食べていたか、わかりません。恐らく、ほとんど食べていませんでした。

というのも、2・3ヶ月薬を飲み続けましたが生理は戻りませんでした。そして、私が食事をしっかりしようとしていないことにより、先生に大きな病院の精神科に行くように言われてしまいました。

母親は、精神科、という言葉に動揺していたと思います。
私は、精神科かあ、と相変わらずあまり動いていない頭でぼんやりと捉えていました。
これは夏から秋の間のことでした。

精神科に行くよう言われてから、母親は私にさらに強く肉を食べさせようとしました。肉を食べれば生理は来るから、元通りになるから、と毎日のように言われました。

秋の記憶はほぼありません。特に食生活の記憶は皆無です。すみません。
とにかく生活の何事においても気力がありませんでした。感情もあまりありませんでした。


とりあえず、友達関係を維持しようとグループにくっついていました。授業の間の休み時間のたびにA子のもとへ集まりました。もうそれが私の義務のようになっていました。
勉強にも大変な義務感のようなものを感じていました。授業内容は全教科すべて理解しようとしました。先生の話を漏らさず聞き、宿題、自己学習、テスト勉強、と勉強に支配されたように取り組みました。そのため、テストでは私の所属する500人弱のコースの中で毎回1位か2位でした。この私の異常なほどの勉強への取り組む姿勢、それにガリガリの身体の外見が加わり、A・B・C・D子以外のクラスの人からは変な人だと思われ、浮いていたと思います。

その頃の写真を見ると、頬がこけ、四肢が棒のようで少し怖いです。骨がよくわかる状態です。そのため、肉がなく、お風呂の浴槽の中や椅子に座る時、骨があたり痛かったです。
見返したくない、振り返りたくないものです。
太ももは、両手の親指と中指で囲めました。
腕は、片手の親指と中指で囲めました。
今思うと細すぎで怖いです。
当時はなんとも思っていませんでしたが。
太っているとも痩せているとも思っていませんでした。
頭が働いていなかったので。

12月はじめ、ついに両親に精神科に連れて行かれ、摂食障害と診断されました。

次回、精神科に行ったところから入院生活についての話をしようと思います。

 

私の文章構成能力の低さと、当時の記憶の不正確さにより、読みにくくなってしまったことをお詫びします。
摂食障害などで苦しんでいる方に読んでいただき、寄り添えたら、また、このような経験をしている人がいるのか、と知ってもらえれば嬉しいです。