がんばる女子大学生のブログ

立派な大人になるため頑張っています。

摂食障害体験記 11 〜高校での過ごし方〜

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こんにちは、るん(仮)です。
今回は、摂食障害で精神科に入院しながら高校に通ったことについてのお話です。
摂食障害となり精神科に入院し、治療を続け、高校へ通えるようになった経緯については、これまでの私の「接触障害体験記」1~10を順にお読みください。

摂食障害体験記 10」から、高校へ1日、朝から夕方まで通えるようになったことについて書いています。今回は、高校での1日の過ごし方についてです。 

クラスメイトの視線、人間関係

クラスメイトからすると、私は非常におかしな人だったと思います。高校入学時は普通の体型だったのに、夏には細い体型、冬にはガリガリのフラフラになり、冬休み前に急に担任の先生から体調不良で入院しましたという説明でクラスから消えたのですから。さらに、冬休みがあけてしばらくして、以前より太った体で午後だけ高校に来るようになって、そしてついに週3日程度ではあるものの、1日高校へ現れるようになったのです。

私が入院しながら高校へ通うようになっても、友達やクラスメイトから、どうしたの?や、なんで入院したの?といったことは一切聞かれませんでした。元々、私は人見知りであったため、気軽に話せる人はそこまで多くはいませんでした。そして、私が一緒に行動するグループは、デリカシーがあるというか、私の身体の心配はしてくれましたが、深堀りするような人はいませんでした。それは私にとってはありがたかったと思います。

私はどのような気持ちでいたかと言うと、もちろん、気まずいと思っていました。どのように振る舞えば良いのか、クラスメイトとどのような距離感で接すれば良いのか、わかりませんでした。そして結果的に、自分から話しかけることはしないようにしました。話しかけられたら、普通に応答することに徹しました。私は、自分が他人からどう思われているか、異常なほど気にする人です。小さな頃からずっと、大学生の今もそれは変わりません。この点も、私が摂食障害になった原因のひとつだと思います。

高校での昼食の食べ方

私の高校の昼休みは、1時間弱と、決して短い時間ではありませんでした。病院で30分のタイマーをかけて病院食を食べ終えることとはわけが違います。場所を確保し、友達と話をしながら食べるからです。また、授業が長引くことや、先生に質問するため職員室へ行ったりすることもあります。
そのため、大きなお弁当とおにぎり3つなど、とても食べ終えることはできませんでした。詰め込むように早食いすることは恥ずかしかったのです。

そして、私はやむを得ず早弁をすることにしました。昼休みの前の授業と前の前の授業の間の休み時間に、おにぎりを1、2個食べました。これも、とても精神的に辛かったです。周りの目が気になるのです。幸い、私の噂話を直接聞いたことはなく、傷つくことはありませんでしたが、絶対私の知らないところで何か言われているんだろうな、と思っていました。
昼休みには、友達と固まり、空いている机と椅子を借り、一緒にお弁当を食べます。当然、私のお弁当の大きさには驚き、ツッコミたかったに違いありません。女子高生は、運動部ではない人は、大体小さな可愛らしいお弁当だったからです。私は自分のお弁当について、量多いね、といったことは何一つ言われませんでした。しかし、恥ずかしかったため、今思えばおかしな食べ方をしていました。自分のお弁当を、中身までしっかりと見られることが嫌だったため、一口食べるごとにお弁当の蓋をしていたのです。蓋を開けて箸でおかずをつかみ、蓋を閉じておかずを口に運んで食べる、これの繰り返しです。当時も、変な食べ方だという自覚はありましたが、この食べ方をする恥ずかしさより、大きなお弁当箱の中身を見られることの恥ずかしさの方が大きかったのです。

今回は、ここまでとします。長い文章、読んでくださりありがとうございました。
摂食障害の方の手助け、そして摂食障害という病気が広く知られることに貢献できたら、と願っています。

 

摂食障害体験記 10 〜入院しながら高校へ〜

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こんにちは、るん(仮)です。
今回は、摂食障害として精神科に入院しながら、高校に通うようになったことについてお話します。

一日、最初から最後まで高校へ行くことが許可

私は摂食障害と診断され、精神科に入院しました。これまでの経緯は、私の「摂食障害体験記」を1〜9まで順にお読みください。

高校の冬休み明け、約1ヶ月間は週3回程度から少しずつ回数を増やしながら昼食後から最後の授業まで高校へ行っていました。

高校へ通う、ということには電車に乗る、歩く、教室移動をする、といった運動が伴います。つまり、消費カロリーが、ずっと病院で過ごすよりも格段に上がります。ちなみに、体育の授業は、担当医から見学するように言われていたため、参加しませんでした。このような生活をしながら、体重を維持していかなければなりません。それどころか、1日中高校へ行くことができる、という治療段階、最終的には退院できるまでの体重まで増やさなければなりません。担当医からは、この先は長い戦いになるだろうと言われていました。というのも、病院食は、提供できるMAXのカロリーになっていたからです。

しかし、私は半日高校へ通う、という生活を続けながら、体重は上下繰り返しながらも、少しずつ増え、1日中高校へ行けるようになりました。母親からカロリーメイトなどをもらってカロリーを補給することはなく、病院食のみで体重を増やすことができました。

朝食、昼食問題

1日中高校へ行けるという治療段階の体重になった日、半日高校へ行けるようになった日と同じように、話し合いが行われました。

その時も最も重要項目は、食事です。朝食と昼食が病院食ではなくなるからです。朝から高校へ行くとなると、病院で8時の病院食を食べていると遅刻してしまいます。そのため、朝起き、身支度をし、母親に病院まで来てもらい、家に帰って朝食を食べてから高校へ行くことになりました。昼食は、母親が作るお弁当になりました。私の高校には学食はなく、ご飯やパン、カロリーメイトやお菓子などの自動販売機しかありません。そのため、ほとんどの人はお弁当を持参していました。私の母親は責任重大となったのです。担当の管理栄養士の方にお弁当のサイズや中身、注意するべき点を教えてもらっていました。

私は母親の作る卵焼きが大好物なので、卵焼きを多めに入れてもらいました。タンパク質としては、卵焼きのほかは、鶏肉の照り焼きや豚肉の野菜巻きが多かったです。それらに加え、野菜を少しお弁当箱に詰めます。お弁当箱のサイズは、よくある細長い二段弁当を1段にしたような大きさでした。男子高校生がよく使う平たく大きいお弁当箱のような感じです。私は、そのサイズで可愛いものを買ってもらいました。炭水化物は、食べやすいおにぎりにしてほしい、と私が言ったので、おにぎりでした。お弁当は母親が作ってくれるので、おにぎりは自分でにぎりました。毎朝、気分によってごま昆布であったり焼き鮭であったりツナマヨであったり、こぶし大の大きさのおにぎり3個作りました。

朝食は、ご飯と味噌汁と卵焼きや焼き魚などのおかずといった普通の和食でした。私は朝食を食べ、お弁当とおにぎりを持ち、バスで高校へ通いました。

このように、私の母親は、朝早く起きて、病院まで私を迎えに行き、1度家へ戻って朝食を作り、さらには私が高校が終わった後、途中まで迎えにきてくれて病院へ一緒に行ってくれました。朝、病院に母親が来る時間は6時半だったと思います。8時前には高校に行くために家を出なければいかなかったからです。母親の負担や、私の消費カロリーのことを考え、1日中高校へ行けるのは週3回から増やすことはできませんでしたが、それでも母親には相当な苦労をかけたと思います。

今回はここまでにします。次回、高校での過ごし方などをお話していきます。

摂食障害体験記 9 〜高校へ行くことが許可〜

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こんにちは、るん(仮)です。
今回は、私が摂食障害として精神科に入院しながら、高校に通うようになったことについてお話します。

高校へ行ける体重へ

私が摂食障害と診断され、入院することになったのは、高校1年生の12月中旬です。経緯などについては、私の今までの「摂食障害体験記(特に3)」に書かれていますので、是非お読みください。
高校の冬休みが12月下旬から1月上旬までですから、出来るだけその期間に入院を重ねようとしていました。しかし、私が学校へ行くことができる、という治療段階の体重に達したのは2月でした(治療計画については、「摂食障害体験記 5」に詳しく書いています)。1月、高校の冬休み終了後は、早く学校に戻れるようになりたくてたまりませんでした。入院前は高校で常にトップクラスの成績で、勉強に憑りつかれたような私だったため、私を置いて授業がどんどん進んでいくことが不安でたまらなかったのです。クラスメイトの友達にノートの写真を送ってもらい、病院でも許可された時間で勉強はしていましたが、それだけではやはりカバーに限界がありました。

週2回の朝の体重測定で、高校へ行ける段階に達したとわかったときは非常に嬉しかったです。友達に会えることより、授業に参加できることのほうが嬉しさは大きかったです。
その段階の体重に達した日、担当医と母親と私で話し合いが行なわれました。どのように高校へ行くかについての話し合いでした。担当医は、すぐに1日中高校へ行くことは許可できない、と言いました。理由は、その外出中にまた瘦せようとして激しい運動をたくさんするかもしれない、とのことでした。私はその頃、痩せたいなどとは全く思っておらず、また、担当医も私がそのような運動などを行う可能性は低いと考えていたと思います。しかしやはり、摂食障害(拒食症)という名のもとに入院することになったため、他の摂食障害患者の事例も考慮して、段階的に許可していくのだそうです。まずは午後だけ週3回からで、徐々に回数を増やしていき、さらに治療段階が進むと、午前中から高校へ行ける、と決まりました。

午後だけ高校へ

摂食障害として入院し、最初は生きていくために必要な栄養を摂取する、その後は体重を増加させる、そして体重を維持し続ける、ということにおいて、もっとも重要なものは何といっても食事です。

よって、高校へ行けるようになった当初も、病院で3食を決められた時間に決められた時間内に食べ、食後の安静時間もしっかりと確保しなければなりません。
お昼12時頃に精神科病棟に昼食が運び込まれます。食事と安静をした後、遅刻という形で高校へ行き最後まで授業に参加することになりました。最後の授業まで受けて病院へ戻ってきても、病院の夕食の時間に間に合うことは事前に確認されました。

では、どのように病院から高校へ通ったかといいますと、行き帰りとも母親(または父親)の同伴が必要でした。私が昼食と安静を終え、制服に着替えるなどの学校へ行く準備をしている頃、仕事を早退した母親が迎えに来てくれました。そして、電車へ乗り、高校の最寄り駅まで一緒に行くようにと担当医には言われました。しかし、最寄り駅まで行くとなると、運賃も時間もかかってしまいます。そのため、担当医には内緒で、帰宅する母親と高校へ行く私は電車の乗り換え駅で別れていました(このことも最後まで秘密にしていました)。

帰りも同様に、担当医には母親が高校まで迎えに行くように言われていましたが、乗り換え駅で私と母親は待ち合わせをし、それから病院へ一緒に戻りました。母親は病棟まで付き添い、その日担当の看護師に挨拶をして再び家へ帰りました。

当時も思っていましたが、やはり今こうして振り返ると、母親には大変な苦労をかけたと改めて実感します。高校へ行かない日も毎日面会に来てくれていました。本当に感謝しています。この感謝の気持ちはまだ伝えられていませんが、いつか素直にありがとうと言えるようになりたいと思っています。

今回はここで終了します。次回以降、1日中高校へ行ける日や高校での過ごし方などをお話ししていきます。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

摂食障害体験記 8 〜入院時の面会〜

こんにちは、るん(仮)です。
今回は、摂食障害として精神科に入院していた時(前半)の、主に面会についてのお話です。私の担当医及び管理栄養士などに知られてはいけない内容も含まれます。

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精神科病棟

私は精神科に入院していたため、自由に精神科病棟から出ることはできませんでした。病棟の出入り口ドアには鍵がついています。面会に来る人は、病棟に入るには外側にあるインターホンを押し、病棟内の看護師に名前や要件を伝えると、病棟へ入ることができます。病棟へ入ると、名前とともに入った時間と出る予定の時間を台帳に記入します。そして、看護師から面会者と書かれた札をもらい、首から下げることにより病棟内で過ごすことができます。

入院患者も同様に、病棟外へ出るときは、様々な手続きをしなければなりません。まず、前日までに専用の用紙に病棟を出る時間、戻る時間、理由、連絡先などを記入して看護師へ渡します。病棟外で病院内へ行くのか、病院外へ行くのか、はたまた外泊になるのか、それぞれの場合に応じた用紙があります。看護師はその紙を見て、必要であれば担当医に連絡をし、許可かどうかを判断し患者に伝えます。許可が下りれば病棟外へ出られますが、もちろん病棟出入り時に、面会者用とは別の、入院患者用の台帳に記入します。

このようなことをするのは、おそらく私の入院していた大学附属病院内では精神科だけでしょう。

私の入院していた精神科には、20〜30人程度の入院患者がいましたが、病棟外へ出ていくことができていた患者は10人未満だったと思います。また、面会者が来てくれる患者も10人といませんでした。
精神科に入院する人は様々な理由があり、私には到底わからない、個々人に応じた治療計画が設けられています。

面会は家族のみ、1日30分

私の治療計画では、面会は家族1人で30分以内と定められていました。治療計画の初期段階は病室、少し段階が進むと精神科病棟外の病院内で面会ができました(さらに進んだ段階での話はいずれします。外泊となります)。

入院当初、治療計画の説明を受けた際、私の母親は毎日面会に来ると言いました。
私は、非常に驚きました。週に2回程度を予想していたためです。なぜそのように予想していたのかは、よくわかりませんが、取り敢えず驚きました。そして、少し嬉しく感じました。入院したら、閉鎖的で絶望的な日々を送ると思っていたためです。

そして、本当に母親は毎日面会に来ました。午後、仕事帰りに途中下車し、病院へ通ってくれました。土日は仕事が休みの父親が来てくれました。

面会時には、下着やタオル、病院着などの洗濯物や、読書用の本の交換などをしました。そして、30分話をしました。
病室内及び病院内でふたりで日々の話をしていました。私は病院食が〇〇だった、他の入院患者が〇〇していた、看護師さんと〇〇の話をした、といったことを話しました。母親(父親)は、愛犬の様子や家での出来事などを話してくれました。

母親の協力

そして、私と母親は面会で、担当医たちに知られてはいけないことをしていました。
それは、食べ物を食べることです。
治療計画に沿って、カロリー計算された食事で体重を増やしていかなければならないため、病院食以外の食べ物は禁止されていたのです。


しかし、私はいち早く体重を退院できると設定された値にするため、病院食だけでは足りないと思っていた時(入院前半です)(次第に病院食の量が増えて食べる余裕がなくなりました)、母親に何か食べ物を持ってきてほしいと頼みました。早く退院したいから、と訴えました。
母親は、ダメだとは言いませんでした。そして、バナナやカロリーメイト、焼き芋を持ってきてくれました。もちろん担当医には秘密で、です。このような行為をしてくれた母親の気持ちは、私には全く想像できません。私をかわいそうに思っていたのか、少しでも協力してあげたいと思ってくれていたのか・・・。しかし私は、母親がどう思っていたかは別として、食べ物を持ってきてくれたことに感謝しています。もし母親のこの協力がなかったら、もう数週間入院が延びていたかもしれないのですから。

面会が病室内のときは、看護師から見えないところで(監視カメラが作動していたときはカメラの死角で)、病院内のときは精神科から遠く、あまり医師が来ないところで食べました(大きい病院だったため、医師や入院患者、外来患者や事務の人が多くいたためにできたことです)。

最後まで、このことは担当医や看護師にはバレませんでした(100%言い切れるわけではありませんが、もしバレていたら、必ず注意されていたでしょう)。
ここで初めて話しました。

拒食症で、食べることが恐怖となっている方からは、驚きかもしれません。
しかし当時の私はもう食べることに恐怖など感じておらず、体重を増やすことしか考えていませんでした。「摂食障害体験記 7」にその時の私の気持ちが少し書かれています。

今回は、ここで終了します。精神科病棟の入院、面会についてと、私の面会中のやってはいけない行為についてのお話でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
摂食障害に苦しんでいる方の手助けができれば、と思い、「摂食障害体験記」をこれからも書き続けていきます。よろしくお願いします。
コメントをくだされば、可能な限りお答えします(摂食障害についてのお悩みなど、です)。

摂食障害体験記 7 〜入院時に辛かったこと(食事編)〜

こんにちは、るん(仮)です。
今回は、摂食障害で精神科に入院中(前半)の、食事についてお話します。
おそらく、摂食障害の方は、この食事について最も関心があるのではないかと思います。

私が摂食障害になり、入院することになった経緯は、「摂食障害体験記 1〜6」を(できる限り順番に)お読みください。

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管理栄養士と担当医(精神科医

私は、大学付属病院に入院しました。その病院は大きく、内科・外科・婦人科・小児科といった多くの診療科、専門外来があります。
私は精神科に入院し、担当医は30代の男性精神科医でした。私を摂食障害と診断したのは精神科医ですが、精神科医精神科医ですので、食べ物、即ち栄養面においては、管理栄養士のサポートが必要です。そのため、大学附属病院に勤めている管理栄養士が私の入院中の食事を考えてくださいました。

月に一度、担当の管理栄養士が病室を訪ねて来てくださり、短時間ですがお話をしました。話の内容は、主に食に関することで、好きな食べ物は何か、抵抗なく食べられているか、退院したら何が食べたいか、などといったものでした。
おそらく、こういった方法で信頼関係を構築していこうということだったのでしょう。
その担当の管理栄養士は、優しい女性の方で、私は特に怖気づいたり警戒したりすることなくコミュニケーションを取ることができました。

ただ、入院してから退院するまで、そして退院後の通院期間でも、正直に話せなかったことはあります。担当医、担当看護師、管理栄養士、家族、全員に対してです。
それは、なぜ痩せたか、なぜ食べなくなったか、についての本当の理由です。

中学3年生で運動部を引退し、太る友人を見て、そうはなりたくないと思い、食事量を減らしたことが全ての始まりであることは隠さず話しました。

しかし、時が経つにつれて、痩せていく自分を見て、嬉しく思っていたことは言えませんでした。別に痩せたいとは思っていなかった、と私は最初から最後まで一貫して言い続けました。
私が摂食障害に陥る経緯は、「摂食障害体験記 1」にも書いてあります。

入院中の食事計画

摂食障害体験記 5」にも少し書いてありますが、入院後すぐに、体重を増やすためにたくさん食べることを強要されることはありません。
摂食障害(拒食症)となり入院する人は、それまであまり多く食べていない場合が多いです。急に多く食べると、胃の機能が追いつかないといった障害が起きてしまうからです。また、食べることを拒否する患者もいるためです。

少しずつ少しずつ食事量を増やしていくという治療法が行われます。

食事についてより具体的に

入院当初は、私が入院する前に食べていた食事量よりも少ない量でした。私はお腹が空き、少ないと訴えましたが、治療計画に沿って食事が出されており、変更することは不可能でした。前にも書きましたが、その頃は、入院しなければ良かったと本当に思いました。自分でもう少し多く食べられる、こんな量では一向に体重を増やして退院することはできない、と思いました。

しかし、徐々に食事量は増えていきます。どのくらい増やすかは、管理栄養士と相談して決めます。もちろん担当医の承認も必要です。


一ヶ月も経たないうちに、普通の人と同じ量の食事になりました。内容としては、ご飯またはパン、メインのおかず一品、付け合せ二品程度、時々フルーツ、といった感じだったと記憶しています。白米の量は、一食150グラムほどでした。食パンだと1枚です。

二ヶ月も経たないうちに、白米が一食300グラムになりました。食パンだと2枚です。おかずの量は通常の量と変わりません。主食で摂取カロリーを増やすことが重要だと言われました。白米300グラムを、時間内(30分)に食べることは、なかなか大変でした。顎が疲れてくるのです。その頃にはもう、食事に抵抗はなくなり、時間内に食べ終えることだけを考えて黙々とひたすら食べるようになっていました。完食すると、お腹がパンパンで動けないくらいです。食後30分安静は入院中ずっと続けられましたが、30分以上私はゆっくりしていました。

これは、摂食障害の方で非常に個人差が出ると思います。私は元々、絶対太りたくない、食べたくない、と強く思っていたりはしなかったため、このように食べられました。担当医や管理栄養士によると、頑なに食べたがらない患者もいるそうです。私が黙々と頑張って完食する努力を褒めてくださいました。

白米の量は、300グラムが最大でした(記憶が正しければ、です)。
しかし、私は、早く体重を退院目標の数値にしたかったため、もう少し摂取カロリーを増やしたいと管理栄養士に相談しました。ですが、これ以上多くのものを食べることはキツイとも言いました。
すると、ドリンクやゼリーなどの栄養剤を追加することになりました。具体的には、明治のメイバランスなどです。毎食ではなく、1日1つ程度、食事と同時に時間内に食べます。美味しいとは言えませんでしたが、早く退院するためでした。

この頃、成人男性の一日の摂取カロリーの2倍弱を私は摂取していました。
そのことを知らされたときは衝撃を受けましたが、極力カロリーなどは考えないようにしていました。

食事方法

食事はトレーに一人分、名前とカロリーが記載された小さな紙とともに載せられ、病棟に入院患者分が台車で運ばれてきます。「摂食障害体験記 6」の治療計画表をご覧になるとわかりますが、治療初期段階は基本的に安静にしていなければならないため、看護師がトレーを病室まで運んできて、そこで30分タイマーを設定して病室から退出します。私がタイマーを勝手に止めたりしないように、タイマーは2つ同時にセットされます。1つは私のトレーの上、もう1つは看護師が携帯します。タイマーが鳴ると、看護師が病室にやってきて、完食を確かめ、トレーを戻します。この時、食事前と同様の方法で2つのタイマーを食後の安静30分にセットします。それが鳴ると、終了です。

治療計画の段階が進むと、自分でトレーの配下膳が可能になります。この段階では、自分で台車にトレーを取りに行き、その後看護師のもとに行き、タイマーをセットし、病室に戻り食事をします。タイマーが鳴ると、食事済みのトレーを持って看護師のもとに行き、完食を見せてから台車に戻し、再び同様にタイマーをセットし、病室に戻って安静状態に入ります。

朝食は8:00、昼食は12:00、夕食は18:00に病棟内に台車で運ばれてきます。運ばれると、放送がかかり入院患者に知らされます。

毎日毎日、30分食事、30分安静を1日3回です。
もちろん、精神科に入院している他の患者は、このような時間制限などはありません。私が、摂食障害という名のもとで入院し、治療を受けていたためです。

メニュー、味などについて

病院食は、一般的には薄味であまり美味しくないというイメージが持たれているのではないかと思います。私は、もともとそこまで舌が肥えていたわけではない、美味しさにこだわりを持っていたわけではないため、不味いなどとは感じませんでした。

メニューとしては、主食では白米、食パン、ロールパン、カレーライス、チャーハン、ラーメンなどでした。メインのおかずは、魚の煮付けや肉の唐揚げ、青椒肉絲などがありました。他には、味噌汁や酢の物やコールスローサラダ、オレンジやヨーグルト、などです。
数週間に1回、選択式メニューがありました。洋食(パンなど)か和食(白米など)、魚か肉か、といった感じです。事前に選んで記入をするのです。
行事の日は、行事にちなんだものが出ることもありました。私はクリスマスや年越しを病院で迎えたのですが、クリスマスは、握りこぶしの半分サイズの小さなケーキ、お正月には雑煮が出ました。

入院中に食べたこれら病院食は、退院前の数回分の写真がスマホに残っています。
担当医が、私が退院した後、入院時にどのようなものをどれくらい食べていたか、思い出せるように、写真を撮るように、と言ったためです。

 

今回は、入院時の食事についてディープな部分までお話しました。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
やはり、思い出すとあまりいい気持ちはしません。そのため、嫌なことを忘れようとする脳の働きによってか、曖昧な部分もありました。
詳しく知りたかった人には、少し申し訳なく感じます。
しかし、思い出せる限りのことは書きました。
今回書いたことが、摂食障害で苦しむ方にシェアされ、少しでも治療への前向きな進歩へ繋がることを願っています。

私の「摂食障害体験記」は、まだまだ続きます。
それでは、今回はここで失礼します。

摂食障害体験記 6 〜入院時に辛かったこと(前半)〜

こんにちは、るん(仮)です。
今回の「摂食障害体験記 6」では、摂食障害として精神科に入院中前半の、辛かったことをお話します。
私が摂食障害になった経緯、入院することになった経緯、治療計画などは、これまでの「摂食障害体験記」をご覧ください。1から順番に読んでいただけると嬉しいです。

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入院中(前半) 辛かったこと

一人部屋、かつ監視カメラ

まず最初に辛かったことは、一人部屋で、監視カメラがついた病室であったことです。最初の数週間でしたが、高校生の私には苦痛でした。
監視カメラについては、入院時に説明がありました。プライバシー等の観点から、本人に無断で行うことはよくないからでしょう。当然ながら、私は監視カメラで24時間監視されることは嫌でした。しかし、病人という立場、つまり治療してもらうという立場にいたため、嫌だと言っても聞き入れられることはないとわかっていました。しぶしぶ頷き、されることとなりました。私の両親も監視カメラを容認したとのことでした。
一応、着替えや清拭などは、病室内のカーテンの奥で行うことができました。

なぜ監視カメラが必要なのかという理由についての医師からの説明は以下の通りでした。摂食障害の患者は、痩せたいという願望が強く、ひたすらに運動(筋トレなど)をする人がいる、食べ物を食べることを拒否して捨てる(ゴミ箱は看護師が処理をするため、病室の洗面台に流したり、窓から捨てたりする)、食後の30分安静を守らない、深刻な場合には自傷行為をする、といったような可能性があるから、とのことです。
ちなみに、もちろん摂食障害の人全員がこのようなことをするはずはないけれど、念の為にね、本当はこんなことしたくはないんだけどね、とも医師が言っていたことは覚えています。

最初の数週間の後、この患者は大丈夫だろう、と判断されたのかよくわかりませんが、監視カメラの撮影は終了しました。

男性看護師

他に辛かったことは、男性看護師がいたことです。「摂食障害体験記 5」の治療計画の表を見ていただけるとわかりますが、入院当初は基本的にベッド上で安静にしていなければならず、トイレに行きたいときには、ナースコールを押して看護師に知らせなければなりませんでした。女性看護師が手が空いていないときなどは、男性看護師がナースコールで病室まで来ました。トイレの中まで来ることはありませんが、病室からトイレのドアの前までは看護師が付き添います。
当時高校生の私、恥ずかしさはこの上ありませんでした。
精神科では、急に暴れだしてしまう患者や、身体が不自由な患者も入院しているため、男性の力が必要な仕事も多くあります。私は、男性看護師がいることは当然だ、仕方ない、と自分に言い聞かせ我慢していました。

することがない、行動制限

私は、小さな頃から読書が好きでした。勉強も、好きかと言われるとYESと即答はできませんが、入院時、高校1年生だった私は常に勉強をしていました。勉強が生きがいとなていたと思います。第一志望の国公立高校に不合格となってから、高校では遊ばないで真面目に勉強すると決めていたせいもあります。
入院することになったとき、読書と勉強だけは好きなだけさせてほしいと担当医に言いました。しかし、読書はページをめくる、勉強は鉛筆を持つ、そして

両方とも頭を使うからカロリーを消費してしまう、などといわれ、治療計画の初期段階では禁止されました。テレビとラジオのみが許可されました。私はテレビを見続けると頭痛がするため、ほとんど見ませんでした。ベッド上で安静にしていなければいけないとき、ラジオを聞くかボーッとしていました。時々、学校は今何をしているのだろう、私はいつまでここにいるのだろう、と考えましたが、結論は見当たるはずもなく、次第にそれらのことを考えなくなりました。
ベット上安静が終日ではない治療段階に入ったとき、読書を許可されました。しかし、1日何時間、と制限を設けられました。私はその制限時間ギリギリまで、両親に持ってきてもらった本を読みました。
後に治療計画の段階が進むにつれ、時間制限が緩和され、勉強も少しずつOKになっていきました。
勉強は、塾については、通っていた塾の先生に入院することを伝えていたため、塾の講義で使用した問題と回答を両親経由で渡してもらって勉強していました。学校については、配布プリントは約1週間毎にまとめて担任の先生から郵送してもらい、ノートはラインで友達に写真を送ってもらっていました。とても迷惑をかけたと反省しています。
今振り返ると、どうしてそこまでやっていたのかと当時の自分に聞きたいです。骨折で数週間病院に入院したクラスメイトがいましたが、その人は入院中に勉強なんてしなかったと言います。やはり、私は勉強に取り憑かれていたのかもしれません。
この読書と勉強の規制は、私の担当医の判断で治療計画に組み込まれていました。そのため、これは私の事例です。他の摂食障害者の方については、その方個人の好きなことや譲れないことについて、担当医と相談の上治療計画に反映されると思います。

また、スマートフォンについても、使用禁止から1日1時間、3時間、日中、というふうに治療段階に応じて規制が設けられていました。この制限も、患者の方と医師との相談、判断によりそれぞれ異なる部分だと思います。

まだまだ入院中(前半)での辛かったことはありますが、抜粋してあります。そして、食事のことは除外しました。

次回以降も、その後の、他に辛かったことなど、入院生活の様々なことについて少しずつお話していこうと思います。
それでは今回はここで一旦終了します。

わかりにくい文章となってしまい、申し訳ありません。温かい心で読んでください。

摂食障害体験記 5 〜入院治療計画〜

こんにちは、るん(仮)です。
今回は、摂食障害で精神科に入院した私の治療法についてお話します。
入院するまでの経緯などは、これまでの摂食障害体験記をご覧ください。

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体重により段階分けされた治療計画

実は、今の私にとって入院生活は思い出したくないものです。
また、病院や医師によって治療計画は異なると思います。

摂食障害で苦しんでおり、これを読んで入院や病院にかかることを前向きに考えられなくなった方がいれば、申し訳なく感じます。
ただ、入院したからこそ私は今、実家を離れて一人暮らしをできるようにまでなったことは確かですので、そこはしっかりと伝わってほしいと思います。

その他の方は、このような経験をした人がいるのだ、摂食障害で入院するとこのようなことが(一例として)あるのだと知っていただけるだけで結構です。

 

 

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 上の写真が、私が経験した治療計画表です。実際にはもっと複雑で細かい基準が設けられています。わかりやすいように一部省略し、簡単にしています。
0〜8の段階に分かれており、週2回の体重測定結果に応じて下から上へと進むことができます(上から下に下がってしまうこともあります)(体重次第です)。
例えば、体重が段階2(下から3行目)の体重の範囲内では、食事は30分以内で終わらせ、食後30分はベット上で安静(座位可)にします。また、週に1度看護師のみまもりのもと、洗髪のみ(入浴不可)許可されていました。表の見方がわかったでしょうか。


ちなみに、入院当初、身長などを考慮し、各段階に体重が設定されています。これは、個人によって異なるため、表には記入しませんでした。
一応述べておくと、私の場合、身長160センチメートルで、0段階が30.72キログラム、8
段階が38.40キログラムでした。また、退院後、体重が減少し、35キログラム以下になると、再び入院してもらいます、と担当医から言われました。

摂食障害で悩んでいる方で、入院を考えている方、入院中の方など、もっと詳しく知りたい場合、コメントをいただければ可能な限りお答えします。

今回の「摂食障害体験記 5」は、入院時の治療計画のみ、ここで終了させてもらいます。「摂食障害体験記 4」に入院初日・当初のことを書いてあります。次回以降、その後についてお話していきます。

アルバイト チェーン店か個人経営店どちらが良いか

こんにちは、るん(仮)です。

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アルバイト チェーン店と個人経営店のメリット・デメリット

大学生の皆さん(それ以外の方も)、アルバイトを何にするか考えたことはありませんか?私も大学生になり一人暮らしを始めた際、アルバイトをどうするか大変悩みました。
ということで、今、チェーン店と個人経営店の掛け持ちバイトをしている身として、両方のメリットとデメリットを紹介します。

チェーン店

私は、チェーン店と言いますか、関東に多数存在する大手企業のスーパーの惣菜部門でアルバイトをしています。ですが今回は、惣菜部門に限ったことは省き、スーパー内の全部門に共通する部分についてのメリットとデメリットを紹介します。

チェーン店:採用まで

チェーン店はまず、アルバイト採用時に、しっかりとした面接及び説明があります。
私は、アルバイトしたいという旨の電話を募集広告に載っていた電話番号に電話をし、その数日後に予め聞いていた必要なもの(銀行の手帳や身分証明書、印鑑、住民票のコピー等)を持参し、直接店舗に伺い面接が行われました。白いブラウスに黒いパンツといった格好で行きましたが、この程度で良かったと思います。カジュアルすぎも、しっかりとしたスーツもあまりふさわしくないと思います。

面接では、お店の企業形態や仕事内容、規則などについての簡単な説明がなされました。その場で履歴書のようなものも記入しました。
私の場合は、その場で採用が決定し、制服等の用意が整う数日後に初出勤する流れとなりました。

チェーン店:採用後

初出勤の日は、更衣室で制服に着替えたあと、まずタイムレコーダー(タイムカード)の入力方法を教わりました。出勤・退勤時にタイムレコーダーを押します。ここがチェーン店と個人経営店の違いの1つ目です。チェーン店では、何日の何時何分に出勤し、何時何分に退勤したのか、働く全員分がデジタルデータとして記録され、毎月末に確認します。そして勤務時間に忠実にアルバイト代が出されます。

タイムレコーダー入力後、一通り仕事内容の説明を受けました。当然ながら1日で覚えられるわけはないため、最初の数週間は先輩(上司)の方に一つ一つ教わりながら仕事をします。この点は個人経営店も同じです。

チェーン店のデメリットとしては、シフトの融通がきかない点です。
事前に希望休をマネージャーに伝え、マネージャーがそれをもとにシフト表を作成します。希望休をたくさん出せないうえ、シフト確定後に、個人の私的な理由でこの日はやっぱり休みたい、といったことになると、多くの人が働いているために迷惑がかかってしまいます。

また、しっかりとした企業で働いているという自覚が必要です。1人の言動が他県にもある多くの店舗に影響を及ぼしかねません。
上司にも正しい敬語を使い、マナーもしっかりとし、失礼のないようにしなければいけません。
これを、良しと捉えるかか悪しと捉えるかはその人次第です。

チェーン店:コロナウイルス対応

ここで、現在に限った話となりますが、コロナウイルス対応についても触れておきます。
私の働くチェーン店では、出勤時のタイムレコーダー入力時に同時に体温・体調の記入が義務化されました。旅行や冠婚葬祭などで県外に行く際には、必ず店長に報告し、帰宅後数日は自宅待機が必要となりました。希望すれば、企業が費用を少し負担し、自己負担分は少なめでpcr検査も受けられます。
また、更衣室及び休憩所使用時には、入室時間と退室時間を自分の名前とともに台帳に記入することも義務付けされました。これは多くの人が働いており、万一コロナウイルス感染者が発生した場合、誰が濃厚接触者となるかすぐに見つけ出せるようにするためとのことです。

さらに、従業員がコロナウイルスに感染するとお店の経営に負担がかかる、お店を経営できているのは従業員のおかげということで、企業からわずかではありますが支給金や支援物資(マスク等)がありました。

そして、コロナウイルス関連ではありませんが、インフルエンザワクチンを受けるようにすすめられ、領収書を提出すればワクチン接種費用は企業が負担してくれるといったこともありました。

個人経営店

続いて、個人経営店についてです。
私は、個人経営の蕎麦屋でも働いています。現在の店長は2代目の方ですが、1代目の旦那さんも一緒に働いています。
厨房では、1代目の旦那さんと2代目の店長さん、店長さんの奥さんと正社員の方一人が料理を作っています。
ホールは奥さんが時々手伝ってくださりますが、アルバイト2・3人で対応する、テーブル席15席程度とカウンター席数席、といった規模のお店です。

個人経営店:採用まで

私がこの蕎麦屋で働こうと思った理由は、家から徒歩5分程度の距離であったこと、アルバイト募集の張り紙がしてあったことです。


まずはどのようなお店なのか下調べのような感じで、お客さんとしてお店に行き、食事をしました。食べ終わったときには閉店時間間際であり、他にお客さんはおらず、お店の雰囲気も良かったため、会計時にここでアルバイトをしたい、と申し出ました。
するとすぐに、厨房から店長さんが出てきて、面接をしましょう、となり、そのままテーブル席で面接が行われました。
面接といっても、週何日程度、何時間働けるのか聞かれ、簡単な仕事内容の説明を受けました。その場で採用が決まり、住所と連絡先を伝え、数日後に出勤、来てください、とのことでした。

個人経営店:採用後

初出勤日から、開店準備とホールでの接客をしました。
開店準備では、具体的にはホールではトイレ掃除をし、窓・テーブル・椅子等を拭き、厨房では付け合せの準備といった簡単な料理の準備を一つ一つ丁寧に教わりながらやりました。
ホールでの接客は、レジ打ちはある程度慣れてからとのことで、お客さんの案内をし、お冷を運んで注文を聞き厨房に伝え、料理を運び、食後の片付けなどが主な仕事内容でした。
接客は初めてで、不安でしたが、難なくこなすことができました。
個人経営店であるため、接客のマニュアルといったものはありませんでした。しかしこのおかげで、臨機応変柔軟な接客ができるのです。

今となっては反射的にいらっしゃいませ、お伺いします、ありがとうございました、等の言葉が笑顔とともに口から出てきます。

また、個人経営店であり、長年続いているため、地元のお店という色合いが強く、常連さんも多くいます。半分近くが常連さんと言えるかもしてません。常連さんとお店側の方がよく親しそうに話をしています。

 

お客さんが長居をして勤務時間が長引いても、早めに仕事が終わっても、何時間と決められている通りにアルバイト代が出ます。また、銀行口座への振り込みではなく、現金手渡しです。

 

この個人経営店では、私の他に大学生のアルバイトの先輩が3人、主婦の方が1人働いています。シフトは、話し合いで希望を出し合い決定します。急なシフト変更をお願いしても、仲が良いためにそこまで大変な事態にはなりません。
厨房の方もホールの方も、全員が仲良しです。開店準備中やお客さんが少ない時間帯、閉店作業中には雑談をし、とても楽しい時間を過ごせています。
さらに、仕事がすべて終わると、全員で一緒に食事をします。メニュはー蕎麦が多いですが、当然美味しく、またその時のおしゃべりが楽しいのです。用事があったりする場合はお持ち帰りメニューを作ってくださいます。優しい旦那さんから果物を頂いたり、ケーキを焼いてくださったり、アルバイトの方が持ち寄ったお菓子でプチパーティーのようなこともあります。店長さんと奥さんの子供も加わることもあります。

アルバイトの主婦さんとの話の中で、最近寒くて電気ストーブを買おうと思っている、といった話をすると、使ってないのがあるからあげるよ、と言われて頂いたときは驚き、とても感謝しています。

以上のように、個人経営店の良いところは、規模が小さく働く人全員が仲良しである点です。
やはりチェーン店と違い、コロナウイルスなどへの形式的な対応法はありませんが、私はその点は全く気になりません。個人経営店のデメリットは、今のところ見つかっていません。

結果 

チェーン店と個人経営店の比較のつもりでしたが、あまり上手くできませんでした。
ただ、私の個人的な意見としては、個人経営店の方をおすすめします。ですが、両方経験することも、良い社会勉強になると思います。

また、どのような業種のアルバイトであっても、家からの通いやすさとアルバイト先の雰囲気は大変重要です。今日もバイトか、面倒だな、と思い始めたら危険なサインです。心身ともに疲労が蓄積してしまいます。


私に限った内容を盛り込みすぎてしまい申し訳ありません。チェーン店でも個人経営店でも、そのお店ごとに状況は違います。ですが、私の今回の話が、アルバイト選びに迷っている方への参考に少しでもなれたら嬉しいです。

摂食障害体験記 4 〜精神科に入院開始〜

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こんにちは、るん(仮)です。
今回は、摂食障害と診断されて入院することになった話をします。
入院までの流れは、私の以前のブログ記事「摂食障害体験記 1〜3」に書かれてありますので、そちらをご覧ください。

 入院初日から

入院初日は、まず、病棟内の説明と持ち物の確認、採血等がありました。
病棟内は主に、数人部屋の病室、一人部屋の病室、テレビや本棚のあるスペース、お風呂、ナースステーションから成り立っていました。 3・4人の病室が5部屋程度ありました。お風呂は、一般的な銭湯のような浴槽と洗い場でした。
持ち物検査があるとは思ってもいませんでした。きっと、精神科だからなのでしょう。私はカミソリや眉ばさみを持っていましたが、それら刃物は預けるように言われました。また、タオルやコップ、歯ブラシなどはバッグから取り出しましたが、それ以外の荷物は全てボストンバッグの中にいれたまま、病室にあるロッカーにしまい鍵をかけられ、さらに鍵は看護師が管理することになりました。こんなにも自由を奪われ、束縛されるものかと、その後の入院生活が真っ暗に思われ、何一つ気力というものがなくなってしまいました。

その日に、入院中の治療計画について説明がありました。内容は、当時の私にとって非常に驚愕するものでした。

食事

まず、食事についてです。入院することになる直前、私はこれではまずいと思い、自力で体重を増やそうと努力をしていました(この点については、「摂食障害体験記 3」をご覧ください)。しかしなんと、入院当初の食事のカロリーが非常にわずか、つまり食べる量が少なく計画されているのです。具体的には、私の記憶では、その入院初日の昼食はカレーライスでしたが、白米の量がおよそスプーン2杯くらいだったと思います。それに申し分程度のサラダとフルーツでした。

私はこれは少なすぎる、と言いました。入院前はもっと食べてた、これでは体重を増やして退院するのが遅くなる、早く退院したいのに、と主張しました。私を担当することになった医師は、30代の男性医師でしたが、必死にこの食事量の少なさを説明していました。摂食障害の人の中には、食べたものをすぐに戻したり、食べることを強く拒否したりする人がいるからだそうです。また、摂食障害の人は、入院することになるまでの生活で、わずかな量しか食べておらず、急に多く食べると臓器によくない影響を与えるかもしれないため慎重に食事量を増やしていく必要があるのだそうです。その時の私は、私はそのような人とは違う、と必死に訴えましたが、病人の身、聞き入れられることはありませんでした。

また、1回の食事は30分以内に終えなければならず、食事のトレーに必ずタイマーが乗せられてきました。これも、数時間かけて食事を終えるわけにはいかないからなのだそうです。

行動制限

食事以外での治療計画の驚愕ポイントは、行動制限です。治療計画初期段階の入院当初は、一日中ベッド上で生活です。具体的には、トイレに行くときはナースコールを押して車椅子で移動、食事は看護師がベッド上まで運ぶ、歯磨きや洗顔は洗面器にためた水でベッド上で行う、入浴はもちろん不可能で濡れたタオルで全身を拭くことしか許可されませんでした。読書も書き物も頭を使い手を動かすからダメ、と言われました。できるだけカロリーを消費しないようにするためだそうです。私は、これは極端すぎるのではないかと思いました。しかし、担当医の言うことですから従うほかありませんでした。
ちなみに、この行動制限は入院当初の段階です。その後、徐々に緩和されていきます。そのことについては、今後、順を追って書いていくつもりです。

また、毎回の食事の後と就寝前(消灯時間は21時でした)にはたくさんの飲み薬がありました。タンパク質やビタミン、鉄分などの栄養をとるための薬だと説明を受けました。

私の摂食障害の治療計画は、体重によって段階が分けられています。何キログラムになったら行動制限はこのくらいに緩和、といった風にです。もし体重が減ってしまったら、前段階に戻ることもあるとのことでした。体重測定は週に2回、起床後すぐに行われます。採血も週に1回ありました。

また、面会は家族のみ(親戚不可)、1日30分までと制限されました。両親は、このような入院生活を送ることになった私をどのような気持ちで見ていたのでしょうか。私には到底想像もつきません。

このようにして私の入院生活は始まりました。

次回以降、治療計画の具体的内容、私の入院生活を紹介していきます。

毎回のことですが、これは私個人の経験談です。病院や医師によって治療法などは異なります。私と同じく摂食障害で苦しんでいる方は、参考として、そうでない方は、このようなことを経験している人がいるのだと思っていただけるだけで結構です。

コロナ禍で関東にひとりぼっち大学一年生の後期授業と帰省の話

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こんにちは、るん(仮)です。
今回は、夏休み終了後の後期授業と実家に帰省した話をします。

週1コマの対面授業

私の通う関東の国公立大学は、前期は原則オンライン授業で、後期も基本的にオンライン授業で進めるという計画が発表されました(夏休み時点)。ただし、実験といった対面で行わなければならない授業だけ10月に対面で実施し、11月から完全にオンライン授業、とのことでした。

そこで理系の私の学科では、週1コマ、実験の授業が行われました。集まる人数を少なくするため午前と午後に分かれ、さらに6人程度のグループで実験を行ったため、他の学生と接することはあまりありませんでした。当然、学科の人の顔と名前を覚えることはできませんでした。

そして10月末になり、11月から必修授業の一部も対面で行われると発表がありました。
私の場合、週2日、3コマの授業が対面となりました。

半年ぶりに帰省

10月末に、実家へ帰省しました。3月末に関東へ来てから一度も帰省していませんでしたので、半年ぶりの地元です。電車3時間+飛行機1時間半+電車1時間という距離です。なぜ帰省したのかというと、自動車の運転免許を取得するためです。運転免許の学科二次試験の受験及び交付は、住民票のある地域でしか行うことができません。私は夏休みに自動車学校へ通い、卒業していました。

しかし実際のところ、表面上は運転免許取得のためでしたが、親戚や地元の友人に久しぶりに会うことが私にとっての最大の目的でした。1週間くらいは滞在したかったのですが、バイトと大学の対面授業があるため、3日というとても短い帰省となりました。

無事に1日で免許を取得し、中学・高校の友人、兄弟、親戚と会うことができました。3日という限られた期間の中に予定を詰め込みました。

地元に残っている友人とご飯に行き、各自の近況を報告し合いました。私の大学とは違い、普通に毎日学校に通っていました。新しく友人もでき、楽しく過ごしていると聞いてうらやましいと思いました。また、関東でひとり暮らしをしていると、話す相手もいないため、久しぶりに気のおけない友人と心ゆくまで話すことができてとても嬉しかったです。

勉強についてですが、対面ではないとしてもオンライン授業で課題はあります。3日間の帰省でたまった課題を片付けることは大変でした。また、友人等と会うときは一緒に食事をするため、少し体重も増えてしまいました。しかし、リフレッシュできた最高の3日間でした。

11月からの大学生活などについては、次回以降に続きます。

毎度のことですが、今のコロナ禍、このような生活を送る大学1年生がいるということを知ってもらえたらと思い書いています。そうなんだという気持ちで読んでいただけると嬉しいです。

前期オンライン授業のみのひとりぼっち大学生の夏休み後半の話

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こんにちは、るん(仮)です。
今回は、私の夏休み後半についてお話したいと思います。

バイトと自動車学校がメインだった夏休み後半

私の夏休み後半は、基本的に自動車学校とバイトの予定しかありませんでした。自動車学校の短期集中プランに申し込み、ほぼ毎日通い、無事卒業することができました。後は地元の免許センターに行って学科試験に合格し、免許証を交付してもらうだけです。
しかし、自動車学校でも私は友達を作ることができませんでした。夏休み中の大学生と見られる人がたくさんいました。もちろん私のように一人で過ごす人も多くいましたが、友達を作って話をしている人がいました。待ち時間におしゃべりをしたり、修了検定などが合格したときに一緒に喜んだり、楽しそうでした。最初は一人でいたけれど気がつくと友達が数人できている、という人が多くいて、人見知りの私は不思議でたまりません。どのように知らない人に話しかけるのでしょうか。大学へ実際に通うようになったとき、この自動車学校のように友達を自分から作れないのではないかと心配です。

また、バイトは今まで通りに週4・5回、作業的な仕事を3時間、というものを続けていました。相変わらず、特に変化はありませんでした。ひとつあったとすれば、私と交代でシフトに入っていたパートさんがとある良くないことをしてクビになってしまい、私の勤務日数が増えたことです。

対面授業がない中、どのように友達をつくるか

ここで少し、夏休み前の話をはさみます。夏休み1ヶ月前くらいのある日、私はインスタグラムを見ていて衝撃を受けました。その当時、私は同じ学科の女子とフォローをしあっていました。そして同じ学科の女子2人が同日に投稿した、2人で撮った同じプリクラに衝撃を受けたのです。2人でランチに行き、お話をした、初めて大学の友達ができた、というようなコメント付きでした。

なぜ私が衝撃を受けたのかというと・・・
私は、みんな(ここでいう同じ学科の人)と会ってみたくても、コロナウイルスのために会えない状態である、それぞれ我慢しながら各自で勉強を頑張っている、と思っていたからです。私の頭の中は、混乱状態でした。どのようにして一緒に出かける運びになったのでしょうか。そして、どうして先に2人で会うのか、と。私の学科の女子は、一桁の人数しかいません。ほんの僅かな人数だから、初めて会ったりするのは全員が揃うとき、などと私は勝手に思い込んでいまいた。そのために、2人が抜け駆けのようなことをしたように感じられたのです。
このような感情を抱いてしまった自分が少し嫌になってしまいました。

ちなみに、4月の時点で学科女子のLINEグループができ、1度だけグループ通話を全員でしていました(それほど人数が少ないのです)。

それでは、夏休みの話に戻ります。

初めて同じ学科の人に会い、大学の見学研修へ

夏休み後半、私の学科では、見学研修がありました。例年だと1泊2日の研修旅行という形で行われているそうですが、今年度は学科を2つに分け、それぞれ1日で研修を終えることになったのです。


見学研修の前日、大学に学部の1年生が集められ、ガイダンスが行われました。9月後半、その時期になって初めて学科の人全員に会いました。先生が翌日と翌々日の見学研修の説明と後期授業の履修について2時間弱話をされました。
ガイダンス終了後、誰が言うでもなく学科の女子が自然と集まりました。これはおそらく、女子の人数が非常に少ないためです。そこではじめまして○○です、よろしく・・・というような軽い会話を交わしました。このときはそれだけでした。

翌日の見学研修は、同じ日に見学研修となった女子と少し話をできました。ですが、やはり研修なので、施設見学とバス移動がメインで、そこまでたくさん話せませんでした。男子とは私は当然ながら話しませんでした。自分から男子に話しかけることなどとてもできません。普通に話しかけている女子が一人いて、すごいなあと思っていました。

学科が2つに分かれて実施された2日間の見学研修が終わった日、学科女子のLINEグループで、次の日にランチに行こうという話が出ました。全員参加できるということで、決定しました。

初めて大学の友達とご飯へ

学科女子のランチ会(?)は、大学近くのカフェで行われました。軽く1時間余りお話しました。そこでもまた、私は色々な話を聞いて驚きました。

そのうちのひとつが、前期の授業についてです。オンライン授業で、一部の科目はテストが行われました。そのテスト勉強を、学科の人たち数人で一緒にしていたということに驚きました。前半に書いた、インスタグラムをでお昼ご飯を食べに行ったという投稿をした2人はもちろん、そこに同じ学科の男子も時々加わっていたそうです。
では、どのようにして友達になったのかというと・・・バイトだそうです。片方の女子と同じバイトをしていて、仲良くなったそうです。また、そのバイト先では同じ大学の先輩とも仲良くなれて、大学の様々な話を聞けたそうです。
私は・・・彼らが知り合い、友達になっていく間、ほとんど人と会わない作業的な仕事を黙々としていたのです。この差に驚愕しました。
人見知りの私には辛いことがないところが良いと思っていたバイトでしたが、その分得るものが少なかったのです。

その女子会では、他に前期の授業の話やバイトの話、入りたいサークルの話など、広く浅くサラーっと話しました。
人見知りの私でも、女子だけ、かつ少人数であったため、比較的ラクに楽しく過ごすことができました。一部の人と比べると出遅れはしましたが、仲を少し深めることができて十分嬉しかったです。

私に会いに、両親が旅行で来てくれた

私が夏休みで最も嬉しかったことは、夏休み終了の数日前に両親が関東まではるばる来てくれたことです。両親はツアーに参加し、ツアー中のプランがない夜に会ってくれました。この土地の焼肉屋を予約し、現地集合しました。
私は実は、どのような顔をして会ったらいいのか、何を話したらいいのか、上手く話せるかどうか、不安はありました。家族なのに不思議です。もう6年以上両親と外食に行っていなかったせいもあるのかもしれません。

実際に会うと、意外と普通に話せました。焼肉屋で良かったと思いました。メニューを選んで注文し、運ばれてきたお肉を焼く、という作業があったため、何も話さない状態に変な違和感を感じることがなかったからです。
上手に話せるか自身がない人とご飯を食べに行くときは、焼肉屋をおすすめします(笑)。沈黙が苦痛ではないので・・・

食べ進めていくうちに、自然と自分の現状を話すことができました。
前期は家でオンライン授業と家事をし、夜にはバイトに行き黙々と仕事をしている、オンライン授業でわからない内容があり私は一人で苦しんでいたが、他の人は協力できていた、自動車学校の運転練習が大変、などと話をしました。
両親は優しく私の話を聞き、共感し、アドバイスをくれ、支えてくれました。
やっと自分の抱えていた思いを全部口にすることができた時でした。

焼肉屋で夕食を終えたあと、両親は私の家へ来ました。どのように暮らしているか見たかったそうです。私の家を見て、また少し話をして、お土産を置いてホテルへ帰っていきました。実家からおいしい果物や野菜、レトルト食品や日用品を持ってきてくれていたのです。とても嬉しかったです。

夏休み終了

このようにして、私の夏休みは終わり、大学は後期に入りました。
大学後期の話については、次回にします。

今までのブログ記事と同じように、このように過ごしている大学生がいるんだ、とこれを読んで知っていただけるだけで嬉しいです。

関東にひとり残された大学1年生の実態

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こんにちは、るん(仮)です。
今回は、大学進学のため今年度関東で一人暮らしを始めたものの、コロナウイルスのために思い描いていた大学生活ができていない、というお話です。

すべてオンライン授業のままで、前期終了

関東で一人暮らしを始め、大学に行ったのは入学当初に資料をもらうためと個人面談のための2・3回のみ。
コロナウイルスの収束を待っていましたが、それはまだ先になりそうということで、4月中旬からオンライン授業が始まり、そのまま4ヶ月ほど経過し、前期が終了しました。

配信されるpdf形式やパワーポイントの資料を読んだり音声ファイルを聞いてレポートを提出したり、教科書で勉強して宿題の問題を解いた用紙を写真撮影して提出したり、1週間に1回Zoomの授業があったりなかったりといった、様々な形でのオンライン授業でした。
前期の成績は、出席やレポート、期末試験などで決定しました。
大学の先生は試行錯誤して方法を考えてくださったようです。

私はパソコンスキルが乏しかったために色々苦労しましたが、なんとか単位を落とすことなく、ついていくことができました。

4月に関東入りしてからすぐにバイトを始めていたため、日中はオンライン授業を受けながら掃除や洗濯といった家事、夕方からバイト、という日々を過ごしました。
私のバイトは接客業などではなく、作業のような仕事内容です。ですので、新しい出会いや発見はあまりなく、単調な毎日でした。

大学生になったら、サークル活動、ボランティア活動、国内や海外旅行など、たくさんの楽しいことがしたいと思っていました。今のところ、全然実践できていません。
それを思い、時々悲しくなりました。
ひとり関東に出てきたため、友達は近くにいません。
笑うことも減ってしまいました。

ひとりで迎えた2ヶ月間の夏休み

私の大学は夏休みが縮小されることはなく、2ヶ月間夏休みが確保されました。前期授業があると、日中はオンライン授業に取り組みます。しかしそれがなくなると、日中は非常に暇になってしまいました。私のバイトは夕方以降しか入れなかったためです。

実家に帰りたくても、帰るわけには行きませんでした。
それは、関東で一人暮らしをしているためです。
帰省することには、コロナウイルスが流行している今、リスクが伴います。
また、バイト先からも帰省は控えるように言われていました。

夏休み前半は、何もすることがなく、また、関東の慣れない暑さに参ってしまいました。唯一の楽しみは、自分の好きな時間に好きな方法で、掃除や洗濯、料理をすることでした。
スーパーのチラシや実際の値段を見比べて買い物をしたり、節約が楽しいと感じるようになりました。好きなご飯を作り、ユーチューブを見ながらゆっくり食事をすることは1日に3回のお楽しみ時間となりました。
また、友達と出かけたり洋服を買うことがないため、バイトでお金を稼ぐことができました。ある程度の貯金はしますが、週に1度、ひとりで外食に行くことも至福の時間です。美味しいと評判が良いレストランを探し、少し遠くてもそこへ行き、美味しく味わうのです。

地元の家族・友達が心の支え

ひとり地元から離れて暮らしているなか、私の心を支えてくれたのが、家族と友達でした。

両親は今、兄は社会人となり自立しているために2人で暮らしています。2人は私が寂しくないようにか、頻繁にメールを送ってくれます。愛犬と公園に散歩に行って撮った写真も送ってくれます。これは、本当に嬉しいことでした。私は毎日のようにその写真を見返しては、笑顔になります。

また、ある日、母親が友達と連絡はとったほうがいいよ、とアドバイスをくれました。
それまでの私は、ほとんど中学・高校の友達と連絡をとっていまっせんでした。1ヶ月に1回、コロナ大丈夫?といった内容のラインのやり取りをする程度でした。
特に高校3年生のときは、勉強ばかりであまり友達と遊ぶこともありませんでした。ただ、一緒に行動する仲の良い友達や毎日のように塾で一緒に勉強をした友達はいました。
そこで私は、勇気を出して同じ塾だった友達2人にグループラインで話しかけました。
すると2人はすぐに話に参加してくれました。
大学どう?や、大学生らしいこと何もできてないよね、旅行とかたくさんしたかったよね、という話をした後、友達がZoomしない?と言ってくれました。
私はその時、とても嬉しかったです。すぐにやりたい!と答えて、数日後にZoomをすることになりました。

そのZoomは、本当に楽しかったです。
2時間ずっと笑っていました。
しばらく笑っていなかったので、頬の筋肉に違和感を感じたくらいです。
持つべきものは友かな、と思いました。
大学の話をし、バイトの話をし、春休みに海外旅行をする約束もしました。

友達と話すことを促してくれた母親に感謝し、勇気を出してラインをして良かったと思いました。

もし、私のような状況に置かれている人には、友人とやり取りをすることを本当におすすめします。

また、このブログを読んで、このような思いを抱いて暮らしている大学生がいるのだと知ってもらえたら嬉しいです。

摂食障害体験記 3 〜摂食障害と診断された高校1年の冬〜

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こんにちは、るん(仮)です。
今回は、「摂食障害体験記 2」の続きで、摂食障害と診断されるまで、そしてその後の入院生活の始まりについてお話します。

ついに摂食障害と診断される

高校1年生の12月始め、私は両親と地元の大きな病院の精神科に行くことにしました。

なぜ病院にまた行こうと思ったかというと、なんとなく、このままだとまずいな、と思い始めていたからです。骸骨みたいな外見、生活で感じる疲労、気力のなさ・・・。もう少し、体重を戻さないといけないと感じていました。

しかし、肉と炭水化物(お米やパン)を食べることに抵抗がありました。ですので、野菜や豆腐、卵をたくさん食べるようにしました。具体的には、肉じゃがではお肉以外のじゃがいもや白滝、麻婆豆腐ではひき肉を避けて豆腐だけを食べる、といったことをしていました。
お弁当には、スープジャーを追加し、野菜のおかずをたくさん入れ、熱湯を注いでスープにし、学校へ持っていきました。

両親には、私がたくさん食べていることを知られたくありませんでした。
きっと、もっと食べなさいとしつこいほど言ってくる両親に反発する気持ちがあったのだと思います。


家での食事では、いつもよりほんの少しだけ多めの量をよそって食べました。ちなみに、中学3年生の頃から、太らないように夕食は17時くらいに食べるようにしており、その習慣は続いていました。両親は19時前後に食べていましたから、別々に食事をしていたのです。もう少し量を食べなければと思っていたこの頃、食事を終えた両親がリビングでテレビを見たりしてくつろいでいる20時前後、私は飲み物を取るためをよそおいキッチンへ行きました。そして、冷蔵庫を開けて麦茶などを取り出しつつ、残り物をパクっとパクっと食べました。速やかに食べるために、爪楊枝を持ち、パッとラップをめくったりタッパの蓋を開けたりし、サッと残り物のおかずに爪楊枝に刺して取り出すことをしていました。粗熱をとるためフライパンやお鍋のまま置いてあったおかずにも爪楊枝を刺し、お腹に詰め込みました。

塾のある日は、高校からそのまま塾に行きます。夕食は、私がコンビニなどで購入できるように、朝に母親からお金をもらっていました。実際に何を食べていたのかと言うと、家から持参したバナナや焼き芋やゆで卵、コンビニで購入した卵焼き、などです。体重を増やさなきゃと思い始める前、中学3年生から高校1年生前半は、何も食べないことが多かったです。好きなコーヒー飲料をがぶ飲みして空腹を紛らわすこともありました。

これらの、体重増やそうとしていた行動は、不思議と鮮明に覚えています。このように自分なりに努力している最中、大きな病院の精神科に行きました。


まずは外来患者として、精神科の先生とお話しました。そこで最初に言われたことは、

「このままだと、死ぬよ」でした。


「今、生命活動を維持しているのはギリギリだよ」身長160センチ、体重35キロ前後でした。この発言は、私を脅すためだとその時は思いました。今でもこれは本当のことだったのかはわかりません。ですが、「今すぐ入院したほうがいい」と言われました。

私は、まさかの入院という言葉に非常に驚きました。それだけは、と思いました。「摂食障害体験記 2」の後半で書いたように、当時の私は友達と勉強に頭が支配されていました。入院したら、友達との関係に支障が出る、私のいないところでA・B・C・D子がもっと仲良くなってしまう、学校と塾の勉強に遅れてしまう、などと考えました。

私は、泣いて拒否しました。それだけはヤダ、高校は行く、塾も行きたい、通院がいい、と何度も言いました。心の中では、今たくさん食べているから、もう少し時間が経てば徐々に身体も戻っていくから、自分でなんとかさせて、と思っていました。
しかし、当然のことながら受け入れられませんでした。
両親も、先生のこのままだと死ぬよ発言に衝撃を受け、私に入院するように言いました。

もう、私にはどうにもできません。病院を訪れたのは12月初めでしたから、今から入院し、できるだけ冬休みにかぶせるようにしようと言われました。いつ退院できるか聞くと、1ヶ月で退院できるかもしれないし、2ヶ月かかるかもしれない、体重の増加次第という返事でした。私はなんとしてでも冬休み明けに間に合わせようと強く思いました。

その後、私はA子とB子に入院することになったことを伝えました。理由は言いませんでした。2人がどのように捉えたかはわかりませんが、痩せすぎ、より、栄養が吸収できない病気だといった感じで受け止めてくれてたらいいなと思っています。担任の先生は、私が入院することについて、体調不良から少しの間入院することになったとクラスに伝えたそうです。私はその頃にはクラスで浮いた存在だったので、へーそうなんだ、という程度でクラスに全く影響はなかったものと予想します。

私は、常にトップクラスの成績を維持しており、入院することにより勉強についていけないことがどうしても嫌でした。他の人より上にいたいというわけではなく、ただ単に授業を全て理解して暗記するものは覚えたかったのです。真面目な性格で、小学校、中学校とそのように過ごしてきたからです。
そこで、A・B・C・D子の中で1番真面目だったD子に、授業のノートを写真で送ってほしいとお願いしました。A子には、塾のノートをお願いしました。2人には本当に迷惑をかけたと思っています。感謝と申し訳無さでいっぱいです。
担任の先生も、できるだけサポートする、と両親に言っていたそうです。実際、1週間に1回程度、配布されたプリント類を両親に郵送していました。
塾の先生に入院すると伝えると、理由を聞かれましたが、摂食障害とは言いたくありませんでした。痩せ過ぎた、と言いました。その塾は、とてもレベルの高いところで、私はついていくことが精一杯、時々何を言っているのかわからなくなることもありました。先生が、自分に責任があるのか、圧力のようなものをかけすぎたのか、と聞いてきたことには驚きました。私はそんなことはない、と答え、塾のプリントを送ってくれるようにお願いしました。

12月中旬、私は入院道具をボストンバッグに詰め、両親と再び病院を訪れました。

私は、摂食障害という病名で、精神科に入院しました。
私は、摂食障害なのか。
なぜ、精神科なのか。
当時の私には理解できませんでした。
精神科の病棟では、様々な入院患者がいます。当時の入院者は20人から30人でした。
認知症の老人から、突然不可解な行動をする人、本当に様々です。
監視カメラが取り付けられた病室もあり、病棟入り口には鍵がかかっており、病棟外に出る時は、患者に応じて事前に看護師に伝えるか、看護師が伴うことになっていました。外出許可がもらえた患者は、外出できます。
(これはあくまで私が入院した病院のことですので、必ずしもどこの病院もそうであるわけではないと思います。)

私はまず、一人部屋の病室に入院することになりました。
初日から、非常に辛かったです。
入院前に入院中の治療予定は説明され、覚悟していたつもりでしたが。

入院生活については、次回お話します。
長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださりありがとうございます。

摂食障害体験記 2 〜高校入学後の心身の変化〜

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こんにちは、るん(仮)です。
今回は、「摂食障害体験記 1」の続きとして、私が摂食障害と診断される前までの経緯についてお話します。

摂食障害と診断されるまでの高校生時代

私は公立高校に合格することができず、私立高校に入学しました。
友達ができるか、という人並みの不安を抱えていました。私は人見知りですので、知らない人に自分から話しかけることができません。誰かが話しかけてくれるといいな、というスタンスで高校デビューしました。

新しいクラスには、幸運なことに、同じ中学校で仲の良かった女の子と、同じ塾に通っていた違う中学校の女の子がいました(その子をA子とします)。話したことはなかったのですが、お互い同じ塾の子だ、と意識していました。私はA子と、彼女と仲良くなったB子と一緒に行動するようになりました。いわゆる、グループです。私のクラスでは、入学後1週間もたたないうちに女子のグループ化が完成していました。男子とは必要があれば話す、という程度でした。

私は中学生の頃から、このような女子グループにはいささか疑問を持ち、トイレに行くときも友達を誘う行動があまり理解できない人です。自分から誘ったことはありません。ですが、どうやらこの高校のクラスでは、グループで行動しないとやっていけないと思い、高校生活を送っていました。

少し摂食障害から話の内容が離れてしまいました。しかし、今振り返ると、この人間関係のストレスも原因の一つだと思っているので書きました。

昼食についてですが、私の高校は学食はなく、自動販売機で売られている菓子パンやおにぎり、持参するお弁当をめいめい好きな人同士かたまって食べるといった形でした。

私は「摂食障害体験記 1」で書いたように、中学3年生の頃から自分が食べる量は自分でコントロールしていました。ですので、高校には母親が作ったおかずを自分でお弁当に詰めて持参し、A子とB子と食べていました。2人には、少なくない?と言われたこともありましたが、そんなことないよ、このくらいが丁度いいんだ、と流していました。

家の食事でも自分でよそい、基本的に肉と炭水化物は食べませんでした。その頃は、普通の人の半分の食事量で生活していたように思います。ですから当然、ますます痩せていきました。

その頃、高校の体育の授業、移動教室での階段など、日々の生活で疲れやすい、しんどいと感じることが多くありました。

高校入学してすぐに行う体育の体力テストでは、自分の運動能力の低下具合に非常に驚きました。まず、50メートル走での全力疾走がまともにできませんでした。中学生のときは8秒か9秒で走れていましたが、12秒くらいに遅くなっていました。スタートの合図の後にすぐに体を動かすことができない、そして足の筋肉が少なくなっており足を早く回せない、といった感じです。1000メートルも、4分10秒ほどで走れていましたが、5分くらいかかるようになっていました。また、バレーボールの授業では、腕の筋肉と脂肪が減少し皮膚のすぐ下に骨があるような状態になっていたので、アンダーハンドパスなども数回で腕が痛くなり、できるだけ参加したくないと思いました。バスケットボールの授業では、シュート練習で、ゴールより1、2メートルの距離でも、腕の筋力がないためボールを投げても届きませんでした。

また、心にも変化がありました。

鬱の症状というほどではありませんが、何事にもあまり関心が持てず、気力もなくなっていました。クラスでもっと友達を作ろうという気もわかず、夏の学校祭へのクラスと取り組みにもあまり積極的な気持ちを持てず、とりあえず自分のことはやる、といった程度でした。A子とB子との関係は問題なく続き、新たにC子とD子がいつのまにか一緒に行動するようになっていました。

ここで、生理の話をさせてもらいます。私の生理は、中学3年生の秋に止まっていました。私は、生理が来ないのは楽でいいな、と思っていました。今思えば恐ろしいことです。それほどまでに脳と心がやられていたのかもしれません。

母親は、生理の来ない私の状態を心配していたようです。いつの頃からか、肉を食べなさい、肉さえ食べれば生理は戻る、と頻繁に言うようになりました。私は決して食べようとしませんでした。これほど頑固であったのも、食事で栄養をまともに摂取していなかった影響でしょう。高校入学の前か後か覚えていませんが、母親に産婦人科に行こうと言われました。はじめは嫌だと断りましたが、そのうちなんとなく行こうかなと思ったときに行きました。

母親は女性の医師の産婦人科を探してくれていました。先生は、子宮が眠っているのかもしれないね、と女性ホルモンを活発にする薬を処方してくださいました。また、母親から私が10キロ程度激やせしたことや、当時の食生活を聞き、非常に驚いていました。食事量、特にタンパク質が足りてない、とおっしゃいました。母親はどうしても私が肉を食べようとしない、と言い、私はすぐにお腹いっぱいになる、と言いました。すると先生は、ササミでもいいからお肉を食べましょう、トロッとしたスープなどを追加しながら少しずつ胃を大きくしていきましょう、とアドバイスをくださり、優しい先生という印象でした。採血をしたところ、女性ホルモンか何かの数値がとても低いことがわかりました。

その頃は本当に頭が回転していなく、記憶が曖昧です。申し訳ありません。産婦人科に行った後の食生活は、あまり思い出せません。母親がササミの食事をたくさん作ってくれていました。私がそれを食べていたか、わかりません。恐らく、ほとんど食べていませんでした。

というのも、2・3ヶ月薬を飲み続けましたが生理は戻りませんでした。そして、私が食事をしっかりしようとしていないことにより、先生に大きな病院の精神科に行くように言われてしまいました。

母親は、精神科、という言葉に動揺していたと思います。
私は、精神科かあ、と相変わらずあまり動いていない頭でぼんやりと捉えていました。
これは夏から秋の間のことでした。

精神科に行くよう言われてから、母親は私にさらに強く肉を食べさせようとしました。肉を食べれば生理は来るから、元通りになるから、と毎日のように言われました。

秋の記憶はほぼありません。特に食生活の記憶は皆無です。すみません。
とにかく生活の何事においても気力がありませんでした。感情もあまりありませんでした。


とりあえず、友達関係を維持しようとグループにくっついていました。授業の間の休み時間のたびにA子のもとへ集まりました。もうそれが私の義務のようになっていました。
勉強にも大変な義務感のようなものを感じていました。授業内容は全教科すべて理解しようとしました。先生の話を漏らさず聞き、宿題、自己学習、テスト勉強、と勉強に支配されたように取り組みました。そのため、テストでは私の所属する500人弱のコースの中で毎回1位か2位でした。この私の異常なほどの勉強への取り組む姿勢、それにガリガリの身体の外見が加わり、A・B・C・D子以外のクラスの人からは変な人だと思われ、浮いていたと思います。

その頃の写真を見ると、頬がこけ、四肢が棒のようで少し怖いです。骨がよくわかる状態です。そのため、肉がなく、お風呂の浴槽の中や椅子に座る時、骨があたり痛かったです。
見返したくない、振り返りたくないものです。
太ももは、両手の親指と中指で囲めました。
腕は、片手の親指と中指で囲めました。
今思うと細すぎで怖いです。
当時はなんとも思っていませんでしたが。
太っているとも痩せているとも思っていませんでした。
頭が働いていなかったので。

12月はじめ、ついに両親に精神科に連れて行かれ、摂食障害と診断されました。

次回、精神科に行ったところから入院生活についての話をしようと思います。

 

私の文章構成能力の低さと、当時の記憶の不正確さにより、読みにくくなってしまったことをお詫びします。
摂食障害などで苦しんでいる方に読んでいただき、寄り添えたら、また、このような経験をしている人がいるのか、と知ってもらえれば嬉しいです。

摂食障害体験記 1 〜摂食障害の引き金、中学3年生〜

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こんにちは、るん(仮)です。
これから、私が中学3年生から始まった摂食障害についてのお話を、順に少しずつしていこうと思います。現在摂食障害に悩んでいる人の助けになればいいと思い、私の経験を知ってもらおうと思い、この「摂食障害体験記」を始めました。

私が摂食障害になった経緯

私は小さな頃から運動が好きで、小学校ではとあるスポーツ少年団に入っており、中学校でも3年間、他のスポーツの運動部に所属しました。1年生の時から真面目に取り組み、先生や仲間から部長に選ばれるほど毎日頑張っていました。また代表委員でもあり、成績も学年トップ5に常に入るような優等生でした。食べることについては特にこだわりはなく、普通の食生活を送っていました。身長160センチ、体重45〜50キロという標準体型でした。

私の食生活に変化が生じたのは、中学3年生の夏、部活引退後です。

運動部の人ならわかると思いますが、引退すると高校受験のために勉強を始めますし、運動量は格段に減少します。私は、今まで通りの量の食事をしていたら太ってしまうから気をつけよう、となんとなく思っていました。引退した後に顔が丸くなっていった先輩を見ていたという影響もありました。

そこで、私は食事量を少し減らすことにしました。具体的には、給食の主食(炭水化物)を半分に減らすことを始めました。ご飯は食べる前に半分をワゴンに戻し、パンや麺は半分にして周りの友達にあげていました。普通の体型だったので痩せようという気持ちは全く無く、ただ太りたくないと思っていただけでした。

気づかないうちに、減らす食事量が少しずつ増えていきました。

そしていつのまにか、家では炭水化物を食べなくなりました。両親には、今まで通り食べていたら太っちゃうから、と言っていました。両親はそれについて何も言いませんでした。学校では主食を食べないと周りからおかしな目で見られると思い、半分は食べ続けていました。しかし心のなかでは、量が多いなあ、こんなに食べたくないなあと思っていました。

秋になると自分の顔の輪郭がシュッとしてきて、それが嬉しくなりました。一方、部活を一緒にやっていた友達は少しずつ顔が丸くなっていました。私は、ああ、良かった、食事量を減らしていて正解だったと思いました。

その一方で、学校の体育の授業で自分の体力と筋力の低下を感じ始めていました。疲れるのが早くなり、授業でのパフォーマンスにいままでのような力強さが発揮できなくなりつつありました。しかし私は、それを少し悲しいとは思いましたが、それより痩せていることに嬉しさを感じていたのでその食生活を続けました。学校の先生の中には、最近やつれてきていないか、と心配してくださる先生もいました。顔の輪郭が他人から見てもわかるくらいには細くなっていたからだと思います。ただ、まだ頬が痩けていたりガリガリな体になっているわけではありませんでした。おそらく体重は40キロ台前半だと思います。家では全く体重を測っていませんでした。

それから中学校卒業までその食事を続けました。体育の授業以外は普段の生活に何も困難はありませんでした。階段の上り下りは今まで通りできていましたし、やる気がでなくなったりといったことはありませんでした。ただひとつ、生理は秋から止まっていました。それについて私はあまり深く考えず、ただ来ないなあと思っていただけでした。

いつから摂食障害になったのか、具体的にはわかりません。

太りたくないと思い、少し食事量を減らし始め、痩せていることに気がつき嬉しくなり、さらに食事量を減らしていったのです。

第1志望の公立高校には不合格でした。学校と塾の先生全員から、絶対に受かるから大丈夫だよと言われており、私自身も少し不安はありましたが、なんとかなるだろうと思っていました。試験当日の夕方、塾で自己採点をし、ああこれは無理だな、と思い、両親に迎えに来てもらうまでひとり泣いていました。

公立高校不合格に私の食生活が影響していたとは今でも思っていません。単純に私の学力が不十分でした。

私立高校に行くと決まってから、私は負け組だ、どうせ私なんてこんなもんだと思うようになりました。

私が高校生になり、病院の医師に摂食障害だと診断され入院したことなどの話は、次回以降に続きます。